「目的と手段が入れ替わってる」こんな話を聞いたことはありませんか?
目的と手段が入れ替わるというのは、仕事においても、私生活においても大変恐ろしいことなのです。
しかし、誰もが陥ってしまう現象であり、これを回避するには「目的と手段」を「抽象と具体」の関係で捉える必要があります。
本記事では目的と手段が入れ替わるというのがどのような現象なのか。それを防ぐにはどのような考え方が必要なのか理解いただけるはずです。
今回は「抽象と具体」というテーマの第二弾でございます。
前回は「法則の発見と活用」と題して、「一を聞いて十を知る」についてのメカニズムの理解とその実践に向けた内容について考えました。
是非そちらも参考にしてみてください。
抽象と具体の関係
まず最初に、抽象も具体も、基本的には相対的なものでしかない。ということをご理解ください。
例えば「りんご」これ自体は抽象的とも具体的とも言えません。「果物」から見たら具体的ですし、「ジョナゴールド」という品種から見たら抽象的です。
「果物」だって「食べ物」から見たら具体的ですし、「ジョナゴールド」も「〇〇産のジョナゴールド」から見たら抽象的です。
このようにどこから見るかによって、抽象か具体かというのは入れ替わるのだと認識してください。
これはモノだけではありません。コトでも同じように言えます。
例えば「施錠をする」という行為も同じです。「泥棒の侵入を防ぐ」という目的から見たら具体的ですが、「鍵穴に鍵を挿して90°右に回す」という動作から見たら抽象的です。
つまり、モノもコトも、単体では抽象的とも具体的とも言えません。それを扱う目的に応じて階段を1段上がったり、下がったりする必要があるのです。
目的と手段の関係
抽象と具体の関係で既に示した通り、目的と手段の関係も相対的なものでしかありません。実は、手段が目的にもなるということ自体は別におかしいことではないのです。
目的と手段も相対的である
例えば、あなたの幸福になりたいと考えたとしても、あなたの一つ一つの行動を幸福と結びつけるのは難しいでしょう。
なので、あなたがどのような状態なら幸福かを考え、
・何をやるにしても体が資本。健康的な肉体が必要だ。
・指示されたことをやるだけでなく、自分の思った通りに仕事ができるようになりたい。
・将来的には妻と子供のいる暖かい家庭を気付きたい。
このように、幸せになるための手段を考えたとします。
次に健康的な体作りのためには何が必要か。と考える時、これは手段が目的に変わる瞬間です。
健康的な肉体が必要だ>すぐに疲れない体力が必要だ>ランニング等のトレーニングが必要だ>時間確保が必要だ
これらの関係は全て相対的に「目的と手段」の関係であり「抽象と具体」の関係でもあります。
目的に対して、手段は一つではない
よく漫画のキャラクターが「目的のためなら手段を選ばない」という信念を持っていることがありますよね?
これらはよく、目的のためなら悪いことだってやってやる。という意味で使われますが、「目的のためなら手段にとらわれない」ことはとっても大切なことです。
抽象的であるということは、様々な解釈が可能だということです。つまり、様々な可能性があるとも言えます。
具体的であるということは、そのうちの可能性の一つ。解釈を絞った考え方です。
「すぐに疲れない体力が必要だ>ランニング等のトレーニングが必要だ」この部分を切り取っても、トレーニング自体は効果的かもしれませんが、手段はこれだけではありません。
エレベータじゃなく階段を使おう。歩く時に早歩きにしよう。このように日々の生活にちょっとだけ負荷を追加するだけでも、すぐに疲れない体力は得られるかもしれません。そう考えると、必ずしも時間を必要としないですね。
手段にとらわれさえしなければ、時間確保できないことを理由に体力作りができない。等と考える必要はないですし、逆に体力作りのためにランニングしているのだとすると、時間確保ができないことを理由に他のやりたいことを諦める必要もないかもしれませんね。
もう少し抽象的に考えた場合、これらは全て幸せになるためにはどうすれば良いかを具体的に考えてきた内容です。
今回は、その内の一つに健康な肉体が必要だ。と考えてみましたが、しかし病に犯されたり、事故で体が不自由になってしまうことはあるかもしれません。そうなった時に、もう幸福になることはできないでしょうか?
きっと、そうとは言い切れないですよね?他者から愛されたり尊敬されたり、自分も他者に貢献できていると実感できているのであれば、それを幸せだと思えるのであれば、健康的な肉体でないと幸せになれない。ととらわれる必要もありません。
目的と手段の関係まとめ
・目的と手段は相対的である
・目的に対して、手段は一つではない
つまり、ほぼ全ての事柄は何かの目的の手段であり「それに拘る必要はないよ」とも言えるのです。
毎日3食ご飯を食べることも。
朝起きて夜寝ることも。
異性と結婚することも。
子供を作ることも。
給料をいっぱいもらうことも。
例外の考え方として、古代ギリシアの哲学者であるアリストテレスは「幸せ」に関しては、誰もが求める究極の目標であり、それ自体が何かの手段にはなりえない。という考えを残しています。
(目標と目的の違いは目的と手段の関係と少し違いますが、今回は割愛します)
目的と手段が入れ替わるとは
ここで本記事のキモとなる「目的と手段が入れ替わる」という現象について考えてみましょう。
これは「手段が目的にすり替わっているよ」という指摘に使われることが多いです。
でもこれだけだとおかしいですよね?手段は相対的に目的になるうるのですから、何もおかしなことではありません。
「目的と手段が入れ替わる」の真の意味は「その手段の元々の目的を見失う」ということです。
目的を見失う怖さ
健康のためにランニングを始めたとしましょう。
ランニングは意外と苦痛に感じず、体力はよりたくさんあった方が良いと考え、だんだんと負荷量を上げていったとします。あるいは、日々の忙しさや、肉体労働などがある日にもランニングの日課をこなしていたとしましょう。
元々の目的は「すぐには疲れない体力」を身につけるためだったので、必要以上にやり込むことは、その目的からしたら意味を持ちません。意味を持たないだけならまだしも、目的を見失った行為には、デメリットを引き起こすことさえあります。
もっともわかりやすい例としては、やりすぎて膝を痛める。といったところでしょう。健康のために頑張ったことで健康を害する。いわゆる「本末転倒」というやつですね。この四字熟語はまさしく目的と手段が入れ替わっている。という意味であるでしょう。
もう少し抽象的な視点なら、健康的な肉体を手に入れるという目的は幸せになるための手段の一つであり、それは健康的な肉体だからこそ、自由にやりたいことができるからである。そう考えた時、やりたいことはできているか?という視点が抜けていないかが大事です。
仕事を頑張った後に、日課だからとランニングを頑張ったところで、別のやりたいことに時間を使えなかったら果たして、それは幸せになるための努力でしょうか?
このように、本来の目的を見失うと、無駄な努力をしてしまったり、むしろデメリットを引き起こしてしまったりすることもあるのです。
目的と手段は1セットで扱ってもいけません。より具体的な内容を考えるために、目的と手段の階段を降りる際には、そこに至るまでの全ての目的も見えていなければきっとどこかで間違えるでしょう。
そして、目的を見失った人は、幸か不幸か間違えたことにも気付かないでしょう。
最初から目的を把握していないことはよくある話
ランニングの例は、自分で決めたことなので流石にこんなバカな奴はおらんだろ。と思わなくもないですが、これが人から教えられたことや、ルール、マナーとなると話は変わってきます。
そういった場合は、手段だけが与えられ、目的が不明のまま実行されることが多いからです。
つまり目的を見失っているどころか、そもそもの最初から目的を把握していないのです。
例えばマナーを守ろう。という考えは確かに正しい。と言えるでしょう。
上品なレストラン等ではテーブルマナーが求められたりすることがありますが、しかしそれは「そこにいる全ての人が気持ちよく時間を過ごし、料理を美味しく楽しめるため」という目的があります。(受け売りです)
この本質とも呼べる目的の部分を理解しないままに手段が目的になってしまっている人は、逆に自分が食事を楽しめなくなってしまうのではないでしょうか?時に、他の誰も気にしてないのに、人にマナーを指摘してしまったりすると、みんなが気持ちよく料理を食べることができなくなってしまうかもしれません。本末転倒です。
自分がマナーに拘るということは不必要に相手にもそれを押し付けてしまう可能性を考慮しても良いかもしれません。
マナーを守るというのは大切なことですが、マナーもルールも完璧なものではないという理解はきっと皆さんにもあると思います。何のために、という目的を忘れてしまうと、逆に無粋な考えや行動が表に出てくるかもしれないのです。
目的を最初から知らないままに失敗することは、顧客からの依頼や上司の指示からも発生します。
上司に「この企画もっとコストダウンできる案はないか検討してみてくれ」と言われたとして、あなたは仕入れや自分の作業時間をもっと削れないか検討したとして、5%のコストダウン案を考えたとします。(これは場合によっては結構すごいことですが)
しかし、上司のコストダウンの目的が、既に使用できる予算がある程度決まっており、機能を削ってでもいいから20%程度のコストダウンをしたかったのだとすると、せっかくの頑張りが報われません。
機能を削ってでもいいなら、5%のコストダウンのために要した時間の半分でも検討できたかもしれません。
正直な話、指示する側、依頼する側が十分に目的を伝えておけば、あるいは解釈の間違いが起こらない程度に具体的に伝えていれば、このような誤解はかなり減らせるものではあります。
しかし、ランニングをしよう。と考えた時でさえ、その上にある目的全てを説明することは少々大変ですよね。
ピラミッド型の組織では、部下はある程度上司の言うことの目的が不明瞭でも、素早く実行することが求められるのも事実でしょう。
しかし、依頼や指示が十分に具体的でない場合、つまり間違った解釈の可能性がある場合には、「仕入れや工数の見直しで数%は下げられるかもしれませんが、そういった方向性で良いでしょうか?」と言う方針の確認は早めにすることで、無駄な努力を回避することができます。
ちなみに、よくある形骸化された仕組みも、目的を見失ったものであると言えます。
ろくに確認もしないチェックシートや、上司の盲判(めくらばん)なんかはその典型ですね。
また、他の記事でも「当たり前」には気をつけろ。と言う内容を書いておりますが、理由もなく正当化される「当たり前」にも目的を見失ったものは数多くあるでしょう。
目的を見失わないためには
ここまでで、目的を見失うことの怖さを理解できましたでしょうか?そして、よく考えてみればそれは結構身近に起こっていることだとわかるでしょう。
まずは、それを理解することが大切です。
「目的と手段が入れ替わる」のは「その手段の元々の目的を見失う」ことです。
あなたが何か指示や依頼をされた時、その目的は何かを、必要に応じて擦り合わせることが必要なのだと警戒してください。何なら毎度確認しても良いです。「その依頼はこういう目的だと考えてよろしいでしょうか?」といったように。
また、あなたが既に行っているルーティンに対して「何故これをやるのだろう?」と考えてみてください。
よく、何故何故を5回やるとよい。と言われています。(トヨタ自動車の示す考え方です)
別に回数に拘らなくても良いですが、回数を重ねるごとに、より「幸福になりたい」といった本質的な(抽象的な)理由に辿り着けます。
本質的な部分を把握しておけば、それよりも具体的な考え方全ては手段であり、それに拘る必要はないのだと、立ち返ることができるでしょう。
・実行前には必要に応じて(指示や依頼が十分に具体的でないなら)目的を確認する
・実行中に何故これをやるのだろう?と問い直す
まずはこれを実践して理解を深めてください。
くれぐれも「当たり前」だからという理由には気をつけてくださいね。
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