当たり前が人の考える力を奪う ~考える楽しみについて~

人生論

「当たり前」や「当然」という言葉を皆さんは使いますでしょうか?
あるいはその考え方に好き嫌いはありますでしょうか?
正直な話、「当たり前だから」というような使い方は私は大嫌いです。

同じように当たり前が嫌いな人も多くいるのではないかと思います。
その理由の多くは「そんなこと知ってて当然でしょ」とか「なんで当たり前のことも守れないんだ」というような使い方に対して「そんな当たり前知らねえよ!」という、当たり前の押し付け、言い換えるのであれば価値観の押し付けに対して嫌悪しているのではないでしょうか?
あるいは、「〇〇して当然」だよね。という感謝を忘れた考え方に対しての嫌悪感が原因ではないでしょうか?

もちろん私はそのような嫌悪感を抱いております。私は人一倍個々の価値観というものを尊重する方であると自負しておりますので、エゴと大義を履き違えた行為が大嫌いです。
ただし、今回私が言いたいことの焦点はそこではありません。

私は考えるという行為そのものが大好きですし、皆さんにも是非この価値観を共有していきたいと考えています。
私が真に「当たり前」を嫌う理由は、「当たり前」はどう足掻いてもそれだけでは何かを結論付ける理由にならないにも関わらず、当たり前であることが正しいこと。のように扱われている。
その結果、人から考える力を奪い去ってるからです。

ここまで読んでお気付きかもしれませんが、本記事はロジカルシンキングの考え方をお伝えする勉強内容ではありません。
私の価値観を共有して、皆さんに「考える」という行為そのものが面白いと思っていただける。そのきっかけとなれば良いな。と思っております。
それでは参りましょう。

当たり前って何?

当たり前の意味は「当然」という言葉から来ております。
当然:述べる事柄が、だれが考えてもそうであるはずだという意を示す時に使う語。道理にかなっていること。
言葉の意味としてはこんなところですが、せっかくなのでロジカルシンキングのテクニックに当てはめて考えてみましょう。

当たり前は「みんなが知っている法則」のことであると考えることができますね。
りんごが木から落ちるのを見た人が「何でりんごが落ちるんだ!?」なんて言い出したらついつい当たり前だろと突っ込みたくなりますが、この時の当たり前が何を意味するかというと、【万物に(りんごにも)重力が生じているから】といったようなニュアンスの法則を意味します。
今でこそ、この力が地球上の物体を地球に引きつけようとする力だと解明されていますが(ざっくり言うとですが)、別にそんな理論はなくとも、他の果物、植物、生物、無機物、ありとあらゆるものが「落ちる」のは誰だって「知っている」のですから【万物は落ちる】という法則でも、それは立派な当たり前です。
大切なのは、それが大多数の人が正しいと認識している法則だということです。

法則とはどのように生まれるのか(発見されるのか)、それは複数の事象から共通点を抽出する「帰納法」という手法で生まれる。ということを過去の記事で紹介しました。
よく使う一例を挙げるなら、「先祖は皆亡くなっている」という事象から「人はいつか死ぬ」という法則が生まれております。
「帰納法」の記事はこちら。「法則の発見と活用」の記事はこちらを参考ください。

法則というのは、とっても便利なものです、
私達は生きていく上でありとあらゆる法則の恩恵を授かっています。科学なんかは法則のオンパレードですしね。
当たり前を「みんなが知ってる法則」という観点で考えたら、これもまた便利な考え方です。あらゆることに疑問を抱かず生活できますし、お互いに前提が共有されているので会話に困ることはありません。
そう、当たり前とは使い方を間違えなければ、その概念自体は便利なものなのです。

観測した事象に正しいも間違いも無い

当たり前とは、みんなが知ってる法則のことだと定義しました。
その上でとても大切なことを言います。
目の前で正しく観測した事象が、法則から飛躍なく導き出した結論と違っていたら、法則の方が間違ってます。

当たり前で是非を問うな

子供の時の自分になりきって考えてみてください。昔のあなたはきっとどこかのタイミングで【万物は落ちる】という法則に無意識レベルだとしても気付きます。
しかし、ある時あなたは風船(ヘリウムガス)に出逢います。手を離した瞬間浮き上がっていく風船が不思議でなんと魅力的に映ることでしょう。
ここであなたは【万物は落ちる】から【ほとんどのものは落ちるけど、浮くものもある】といった法則を新たに得ます。このようにして新たな法則を得ることを「弁証法」と呼ぶのですが、詳しくはまたの機会に。

この例えで何が言いたいかというと。法則というのはあくまで推論に使用するツール(道具)であり、それに矛盾する答えを観測しても、間違っているのは「観測方法」か「法則の使い方」か「法則自体」のいずれかであり、観測したもの自体の是非を問うのはお門違い。
つまり、「物が落ちるのは当たり前だ!だから風船が浮き上がるのは間違っている」なんてことは言えないわけです。

当たり前に価値観を混ぜるな

さて、考える力を奪っているという本題に入る前に、当たり前と価値観についての話も少しだけしておきましょう。
「〇〇すべき(すべきではない)なのは当然だ」という考え方には個々の価値観が含まれております。
例えば、飲食店を利用する時などに、店員が一生懸命サービスしててもそれに対して文句を言う人がいたとしましょう。
それに対して「サービスを受ける側でありながら感謝の気持ちを持てないのは人としてどうなの」とか「お金払ってるのだからサービスを受けるのは当然だ。金額に見合わないと思ったら文句を言われてもしょうがない」とか。
これらは当たり前という強ワードを利用して自分の価値観にあたかも大義があるかのように見せているだけに過ぎません。
この場合の法則と言えるのは「飲食店でお金を払わないのはルール違反」と言うものでしょう。これは当たり前と言って差し支えないかと思います。
「感謝すべきかどうか」は価値観の問題です。
「当たり前」と言う言葉を使って「〇〇すべき」だからそれは間違っている。だからそれは正しい。というのは多くの人はそう思ってるから間違っている(正しい)と言っているに過ぎません。(それが多くの人かどうかも定かではありません)
しかし、現状はこういった価値観も含めた当たり前の使い方をされているのも事実だと思います。

ちなみに私個人の認識としては、究極的にはルールを守るべきかどうかも価値観に依存するのではないかと考えています。
ただそこに「これはルール違反。違反するとどうなる」という法則があるだけ。

当たり前が人から考える力を奪っている

ここまでで私の考える「当たり前」の正体をだいぶ共有できたのではないかと思います。
冒頭で触れたように、私が最も「当たり前」を嫌う理由は、それが人の考える力を奪っているからです。
ここを掘り下げていきます。

あなたは今まで「何故ですか?」と聞かれた時に「当たり前でしょ?」と答えたことはありませんか?
ロジカルシンキングに限らず、考える力に物事の理由や原因を問う「何故?」という考え方はとても大切です。
しかし、私たちは「当たり前」という概念が、既に起こっていることに対して正しい、間違っている。と判断する理由にはならないのにも関わらず「当たり前だから」という理由で物事を判断してしまいがちです。

りんごが木から落ちる例を出しましたが、りんごが木から落ちるのは決して「当たり前」だからではありません。
説明する際には相手のレベルに合わせる必要がありますが、「あらゆるものに重力が作用しているから」とか「地球の引力に引っ張られているから」とかそういった内容になるはずです。
「あらゆるものが地球に引っ張られている」と言う法則に則れば「りんごが落ちるのも」も当たり前(道理)だ。このように法則の使い方があっているね。という使い方はできます。
「当たり前」は理由にはなっていないことは理解いただけましたか?

私達は子供の頃からあらゆる「当たり前」を教えてもらっています。
そして、大人になっても職場で耳にする機会はあるでしょう。
社会の常識。という意味での「当たり前」は確かに結構便利なものです。国の法律はもちろん、あらゆる暗黙のルールに対して、これを守っておけばとりあえず失敗することは少ないだろう。という選択をできる基準となるのですから、まず知っておいて損はありません。そこは否定しません。

しかし、知っているだけで理解していない人が大半だと思います。
あなたは仕事中にガムを噛んでいいと思いますか?仕事中に自己研鑽の読書をしてもいいと思いますか?仕事中にタイピングの練習をしてもいいと思いますか?(仕事を学校に置き換えても構いません)
仕事内容にもよるかもしれませんが、いけないに決まってるだろ。と考える人もいるのではないでしょうか?
ではそれを「当然」とか「当たり前」を使わずに何故いけないのかを説明できるでしょうか?

実際に私は、職場の上司に、仕事中の隙間時間に読書をして良いか尋ねたことがあります。
私の仕事は装置の設計業務を請け負って、合意した納期と金額で装置を開発することでしたが、仕事を早く進めると隙間時間ができることがありました。
その度にちょっとした改善や勉強を重ねてきたのですが、ある時読書しても良いのでは?と思って聞いてみたわけです。
当然、社会の常識として仕事中に読書はダメじゃないか?という認識はありましたが、その理由はよく考えてみると不明で、むしろ隙間時間を勉強に当てた方が会社のためにもなるはずだ。という思いもありました。

私はその時上司に「仕事の時間中に読書をすることを認めてほしい」と主張したのですが、その理由が以下の2点です。
・人が成長するにはインプット(勉強)する時間が不可欠。あるいはインプットの時間がなければとてつもなく成長速度が遅い。つまり、実践による経験だけでは効率が悪すぎる。
・仕事の時間中でなければ、わざわざインプットする時間を作ろうと思わない人が多数である。
このような理由から、勉強する時間に対して会社が投資をする価値があるのではないか。といった話をしました。
(理由に対する根拠は十分に揃えてはいませんでしたが、今までの私自身の実績でも判断してもらおうと言う魂胆はありました)

上司は「読書をしても良いか」という問いに「良いとも悪いとも言えない」と前置きをしてから、その思いを話してくれました。話し合いの結果、報酬形態が成果型か時間型かで考え方も変わる。ルールを悪用する人もいる。といった内容は一部納得できる部分もありつつ。最終的にはメリットもあることや、やる気を汲んでもらえて、少し仕組み作りをしてやってみよう。という流れにはなりました。

もし、仕事中に読書をしてはいけないのは当たり前だ。というところで思考停止していたら、このような発想には辿り着けませんでした。

楽をしても良いけれど

「当たり前」という概念は正直とても楽です。魅力的です。人は考えたり、判断したりするのにエネルギーを使うと言われておりますから、思考停止して「当たり前」だからと判断するのはとっても楽なのです。

楽をするのが悪いなんてことは言いません。私も楽するのは大好きです。
よく、考えるスキルに関する読書をしていると、同じ靴しか買いません。同じシャツを何枚も持っています。という著者と度々出逢います。彼らはルーティーンに余計な判断力を使いたくないのです。
私も仕事に着て行くポロシャツは何枚も同じものを持っています。毎日何を着ていこうかなんて考えたこともありません。
楽をすること自体は悪いことではありません。むしろ私は楽をするためにどうしたら良いかなんて考えていることばかりです。

私がこの記事を通してお伝えしたいのは、「当たり前」は悪だ。という話ではありません。(個人的には悪だと言いたい気持ちはありますが)
「当たり前」に気付けなければ、それについて考えることもできない、考えることができないのはとてももったいないことなのです。

あなたは学校や職場で理不尽な環境にいるとか、頑張りが報われないとか、もっと魅力的なことをしたいとか。何となく満足できない。そういうフラストレーションはありませんか?
そうであれば、何かを変えたいけど我慢しているのであれば、もしかしたら余計な「当たり前」に邪魔されて自分で自分を苦しめているかもしれません。
今我慢しているのは何故だろう。と一度考えてみてください。考えて、調べて、聞き込んで、相談して、話し合って。その先に、実は我慢しなくて良いのだ。という正解はゴロゴロ転がっているでしょうし、やはりここは我慢する必要があるのだと納得できる部分もあるでしょう。

楽をするのであれば、その代償を受け止めなければなりません。
毎日服を選ぶことをやめた私は、服を選ぶ楽しみを得られず、他者から「あの人服装に無頓着なのかな」と思われりすることもあるでしょう。
他者から与えられた仕組みや考えを当たり前だと思って過ごす人たちは、他者の都合の良いようにコントロールされます。
例えおかしいことだと気づいても、それが当たり前の世界では変化を起こすことはとても大変で、相応の努力とスキルと熱意を求められることでしょう。おかしいことをおかしいままに受け入れて、努力しないことを私は否定しません。

しかし、努力して自分が正しいと信じた思いを、頑張って実現することはとっても面白いことです。
他者に自分の思いをや考えを理解してもらうことはとっても面白いことです。
議論をして、論破するのではなく、お互いが納得することはとっても面白いことなのです。

今回はただただ私の思いを綴る内容に付き合っていただきありがとうございました。
今後も考えるテクニックはもちろん、考える面白さを何とかして共有していけたらと思っております。

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